丸 山 まるやま (下久米田地区) |
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むかし しもくめだちく いたくらちく なかほど まるやま |
昔、下久米田地区と板倉地区の中程に丸山がありました。 |
むかし まるやま 「きびづか」 い えんぽう ころ おか えがわ みず (こめ しる) |
昔、丸山は「黍塚」と言われ、延宝の頃までは、この岡の江川からは「しろ水」(米のとぎ |
なが ぶつじ (ほうおんこう いえ きゃくさま せ わ
とき) とき きびづか |
汁)が流れていました。仏事(報恩講など家でお客様の世話をする時)などがある時は、黍 |
まえ い きゃくさま なんにんまえ わん
か さんどおがむ よくじつ |
塚の前に行って、 「お客様があるのて、何人前の椀を貸してください。」と三度拝むと、翌 |
ちゅうもん わん か
ようじ す もど |
日には注文どおりの椀を借りることができました。 そして用事が済むとすぐに戻すのがき |
とし た ひと こころ わる き ぐ
そまつ かず まちが |
まりでした。しかし、年が経つにつれて、人の心は悪くなり、器具を粗末にしたり数を間違 |
もの わん か や |
えたりする者があったので、椀を貸すことを止めてしまいました。 |
むかしばなし けいきょうろく ほん の すこ
はな ところ げんにょぶち |
この昔話は、『景響録』という本に載っています。ここから少し離れた所には「玄女淵」が |
きびづか あいだ あなみち つう
ふち ひとり むすめ す まくら か |
あって「黍塚」との間に穴道が通じていました。この淵に一人の娘が住んでいて、椀を貸し |
つ まるやま い むかし
わんか やま い じょうき |
たのだとも伝えられています。丸山と言っていますが、昔は「椀貸し山」とも言い、上記の |
むかしばなし ほか つか
い こやま べんけい わらじ |
ような昔話があります。また、他に「きびす塚」とも言いました。この小山が、弁慶が草鞋の |
つち たた おと つか つた
あしくび い |
土を叩き落としてできた塚だとも伝えられています。足首をきびすと言うことからそのよう |
なづ し しょうわ ねん でんしゃ せんろ ふせつ とき つか どしゃ |
に名付けられたのかも知れません。昭和4年、電車の線路を敷設する時にこの塚の土砂 |
つ いま まるやま な
しょうわ はじ ごろ おお やま |
を使ったため、今はもう丸山は無くなりましたが、昭和の初め頃までは大きな山でした。 |
さんたい いしじぞう たちき お しげ ひるま くら
お |
そこには三体の石地蔵がありました。立木がうっそうと生い茂っていて昼間でも暗く、「追 |
で い やかん めった ひとどお な じぞう |
いはぎ」が出ると言われ、夜間は滅多に人通りが無かったということです。この地蔵は、そ |
ばしょ ちんじゅ あんしん た
やま けず とき |
のような場所の鎮守と安心のために建てられたのかもしれません。 また、山を削る時に |
どき しゅつど まるやま こふん ひと |
は、たくさんの土器が出土したということです。きっとこの丸山も古墳の一つだったのかも |
し わんか でんせつ のうねちく
わんかしやまこふん い つた |
知れません。「椀貸しの伝説」は、長畝地区の椀貸山古墳にも言い伝えられています。
<越前丸岡の民話と伝説> |